湯原温泉の歴史

近世の行政:沿革

  1. 神湯村(かんとうそん)
    明治22年(1889年)湯本村近隣の田羽根村、下湯原村、釘貫小川村、都喜足村、久見村三世七原村、社村が合併して神湯村となる。
  2. 湯原村(ゆばらそん):明治37年(1904年)温泉街旭川西対岸の八幡村と合併し湯原村となる。
  3. 湯原町(ゆばらちょう):昭和15年(1940年)町政を施行し湯原町となる。昭和31年(1956年)二川村と合併。
  4. 真庭市(まにわし):平成17年(2005年)新庄村を除く真庭郡の町村と合併し及び北房町を加えて真庭市となる。

湯原温泉の開湯は?

弥生時代?縄文時代?神代から?

 最初に湯原温泉の温泉を利用し始めた人々は、たたら製鉄に従事する山人だったというのが定説です。湯原温泉は、現在も温泉薬師周辺の河原一帯から温泉が自噴しており、古くは、その自噴する温泉をそのまま利用した露天風呂が多数ありました。またその一帯は河原の地熱そのものが高く冬季は、水量も減る為、その河原に小屋を建て天然の床暖房として、たたら製鉄に従事する特に高齢者達が越冬地として利用していたそうです。
「たたら製鉄」は、弥生時代から始まっており、湯原温泉一帯にはその時代からすでに多くの人達が分け入りたたら場と同時に温泉も利用されていたようです。出雲の八岐大蛇、山陽の桃太郎伝説のウラジャ(鬼)、これらは古代たたら製鉄を行っていた人達のことで湯原の場所は中国山地の真ん中で盛んにたたら製鉄が行われていました。この事から湯原温泉の開湯は、鉄の伝来とほぼ同時の約1400年前という説が有力です。


奈良時代には中央政権で重くもちいられた和気清麻呂は、湯原周辺でたたら製鉄を行い勢力を持っていた佐波良一族から出たと伝えられています。その和気清麻呂が中央政権から退いた後、この地の豪族の力を恐れた朝廷が、政(まつりごと)を行う8つの式内縣社をこの地に造ったと言われています。今でもその社跡や史跡や金山(かなやま:製鉄後の屑を積んで出来た小山)社地区から7里四方に多く存在しています。たたら場には多くの人手が必要とされ500名から5000名規模の集団で作業を行ってたそうです。湯原温泉周辺にはそのたたら場が多数存在していました。たたら製鉄には良質の砂鉄は勿論ながら燃料として大量の木材が必要である事から山から山への移動が必然でしたが労働は過酷であり療養としての温泉の利用や冬の越冬地として湯原温泉がその拠点になっていたようです。たたら場のイメージは、アニメ映画「もののけ姫」の中にも描かれています。

戦国時代の湯原温泉

 湯原温泉が歴史的に登場するのは、豊臣秀吉の五大家臣である宇喜多秀家が母である「おふくの方」の湯治場を開設したと言う記述からです。「おふくの方」は、妖艶な美貌だったと伝えられています。 生まれはこの地方で戦国の数奇な人生の中、羽柴時代に秀吉の側室となった方です。秀吉は、おふくを寵愛しその結果、秀家が秀吉の五大老まで上り詰めたと言われます。「おふくの方」が病になった際、秀家は、療養の地として湯原に湯屋を調えました。この時、秀家は20歳余りの若者、親孝行だったのですね。

作陽誌(1691年:元禄4年に書かれた地誌)によれば・・

(大庭郡古跡部の項)湯原温泉、湯本村ニアリ、何人ガ鑿闢(さくへき)ヲハジメシヤヲ知ラズ、カツテ備作太守宇喜多中納言秀家ノ母ハ痼疾(こしつ)アリ、医薬験ナシ、湯原は黄門(秀家)ノ臣牧籐左衛門家信ノ奉邑(給地)ナリ、家信宴ニ侍シ、日語(つねに語る)シテ温泉ニオヨビ、極メテソノ奇功ノ尽述(語り尽くせない)スベカラザルヲ言ウ、 母公ハ旧作州高田三浦貞広(貞広でなく貞勝)ノ室ナリ、色倫ヲ絶シ、高田亡ブルニオヨンデ直家強イテコレヲ納レ、寵嬖コトニ厚シ、イクバクモナクシテ男秀家ヲ生ム、コレニヨリ、モトヨリソノ温泉ノ効ヲ耳ニセリ、ココニ於いて行装ヲ企ツ、秀家ハ吏ニ命ジテ湯屋及ビ寄宿十余宇ヲ造リ、ヨク営ソワナル、母公湯治スルコト三七日ニシテ、久患トミニ除(さ)ル、コレヨリ遐迩(遠近)ニ伝承シ、来ル者踵(きびす)ヲツラネタリ(下略)
  (「美作地侍戦国史考」文中の「作陽誌」の抜粋より)

江戸時代の湯原温泉

江戸時代になり安全に諸国を往来できるようになると一般的に湯治場として利用されるようになったようです。温泉の湧く川沿いには、身分により13の浴場が作られていました。浴場は、主に湯屋(旅館)が管理し湯賃を取って運営していました。また湯株という制度を設けて湯屋の経営を制限していました。 湯屋には湯女・芸妓娼妓を置く事を許され料理や酒の提供も行っていました。当時すでに30軒あまりの湯屋がありました。当時の宿は、木賃宿であったと記述され米味噌醤油に値段を定め宿泊客の便宜をはかったそうですが芸妓などを置いていた事から実際には食事付きの「旅籠」であったと推察されます。

湯原に一番多く人が訪れるのは、大山での牛馬市が開かれる4月から9月までだったようです。山陰山陽を結ぶ大山道沿いにある為、この期間は、「大泊まり」と呼ばれ連日、宿泊客で溢れ繁盛を極めたそうです。この有様は、明治後半まで続きました。

明治も後半になると他のライバルとなる観光地も増えてきました。また一番には鉄道の整備が行われ人の流れが変わってきました。この頃から湯原は、湯治場としての本来の姿に戻っていきます。

左の写真は、昭和初期(s06?)の温泉街の様子です。露天風呂も現在とは様子が異なります。橋のある風景は、手前が「湯山橋(通称:河鹿橋)」、奥に見えるのが「鼓橋」です。バックが鼓岳でこの橋の上で手を叩くと鼓の音のように「ポン、ポン」と岩肌に音が反射して聞こえてくる事から呼ばれるようになったそうです。

左は、昭和6年頃の真賀温泉の様子、真賀・足の両温泉は、温泉郷内では勝山の駅から10キロ程度と便利で賑わっていた。下の写真は、湯原の温泉館前の様子。道も随分と狭い。

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