湯原温泉【温泉と宿と露天風呂】提供:プチホテルゆばらリゾート
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美作三湯命名50周年「現代温泉事情」
リポート湯原温泉いま・むかし
 
1.湯原温泉に異変?
最近の湯原の温泉街に少し異変が起きています。従来、温泉街というとおじさん族やご高齢の団体さんがカラコロと下駄の音を鳴らしながら露天風呂に向かう姿が見かけられたものですが、最近は、若いカップルやグループで旅行に来ている方が大変多い。浴衣は、苦手なのでしょう宿泊のお客様なのだがラフな普段着で足下だけ下駄という出で立ちです。数年前には滅多に見られないことでした。それにそもそも最近は、観光バスで乗り付ける団体のお客さんというのが目に見えて減っている。駐車場を見ても大型の観光バスが列をなすことは、ほとんど無くなった。この様に書くと「それでは湯原温泉は、閑古鳥が鳴いているのか」と思われそうですが、ガッテンけっこう潤っているのです。個人のそれもご家族連れや若い層のお客様が増えているのです。近年、観光地の集客の落ち込みは全国的な問題で近隣の温泉地でも前年比70%とか80%言うところが多い。その中で湯原温泉は、嬉しいことにお客様が増えています。これは宣伝の効果が上がったという事もありますが、むしろ団体から個人旅行への移行という旅行形態の変化の波に湯原温泉の宿が比較的うまく乗ってきた結果と言えます。もともと湯原温泉には700人も1000人も泊まれる大型旅館はありません。31軒の旅館ホテルが温泉郷にありますが、いづれも中小の旅館やホテルばかりです。その為もあり確かに全国に名だたる有名温泉地には、成れなかったのですが、今となってはそれが幸いだったと思えます。高度成長期、各地に誕生した大型旅館は、もともと団体旅行向けに作られていて個人のお客様に対応して行くような営業形態への変更は、に難しい。その為、大型旅館では、今、「何が何でも団体旅行の誘致を・・」と競い合っているのが現状です。関東方面の有名温泉地などバブル時代に大型の設備投資がなされ軒並み旅館が大型化、全国的な団体旅行の減少に低単価での誘致合戦を起こし共倒れになっているという悲惨な状況です。その結果、残るのは温泉街に累々と巨大な墓標を思わせる他に転用もできない廃旅館のビル群。湯原温泉に幸いしたのは、大手の進出や個々の旅館を増築するにも土地が無かった事がその要因と思われるのです。あのバブルの時代には、他の温泉地旅館のリニューアルのニュースに指をくわえて悔しい思いをしたのですが、その思いが、それぞれの宿なりに客室やお風呂など個人客獲得のための設備投資に向けられ結果的に現在の旅行形態に対応できたという事かも知れません。もちろん例外もありますが・・。
 
2.露天風呂の移り変わり今昔
温泉地にある旅館の一番の売り物は、当然ながら「お風呂」。この「お風呂」、面白いことに時代と共にいろいろと変化し続けている。昭和30年代の前半、当時、温泉街には5軒の旅館がありました。その頃の写真を見ると風景に「内湯旅館○○」と言うような旅館の看板が写っている。今から考えると不思議だが「内湯旅館」・・旅館の中にお風呂がある事がステータスであり「売り」になっていたのです。その後、湯原ダムも完成し第一次の観光ブームがやって来ます。旅館も増え又、増築され「お風呂」は、男女別に作られるようになりました。昭和40年頃になると一部の客室には、バストイレ付きが現れますが旅行の形態はまだまだ団体旅行が主体のため、これは特室など贅沢なお部屋だけ、その変わりに家族風呂が作られカップルやお子様づれに好評でした。昭和の終わり頃になると露天風呂ブームが訪れます。混浴露天風呂がモテモテでした。湯原温泉のご存じ共同露天風呂「砂湯」は、人気で週末など「芋の子を洗う」と言ったような有様。これは今でも根強い人気です。しかしこれほど込み合うとやはり静かに入浴したいというお客様も増え旅館の中にも露天風呂が作られるようになります。最初は、混浴や入れ替え制で始まり、後には男女それぞれに露天風呂が作られるようになりました。そして今、求められているのは露天風呂付きのお部屋です。ここまで来るともう出尽くしたという感じですが・・。
 
3.露天風呂とダム景気
湯原温泉のダム直下にある今の露天風呂は、今から80年ほど前に作られたモノだそうです。それ以前の露天風呂は、現在の元湯「温泉館」付近の河川沿いにあったと聞きています。元々この露天風呂は、住民の利用のために作られたモノで、決して観光用ではありませんでした。しかしその当時、大山の麓で開かれる牛や馬の市に向かう人々が、途中に立ち寄り疲れをいやし、ついでに牛や馬も温泉に入れていたようでそれを嫌がった事もあり現在のダムの下の位置に住民も外来者も無料で入れる露天風呂を作ったと言われています。この露天風呂を昔の人は、「乞食湯」とか「ほいと湯」と呼んでいたそうです。元湯に比べて温度も多少ぬるいので子供達にとっては、現在の温泉プールよろしく格好の遊び場になっていたようです。さすがに、牛や馬と一緒にはいるのは問題があり、岩湯も3つ4つと作られほぼ現在の形になったようです。当時の宿は、3軒程度で行商や湯治のために利用されており今のような観光での利用は、限られた人たちだったようです。戦前から戦後しばらくに掛けては、旧国鉄の保養所があり列車事故で体が不自由なった方の療養に温泉が利用されていましたが、その人達にも露天風呂は、大変好まれたようです。現在の湯原国際観光ホテルの脇の山道を上がると湯治の人たちが健康の回復を祈った「手王さん、足王さん」の小さな祠があります。終戦後、世の中かが少し落ち着いてくると観光で訪れる方も次第に増え写真に見られるような、とてものどかな光景が繰り広げられるようになりました。その頃から旅館も増え又、温泉も各宿に引かれるようになりましたが、湯原の温泉街の中で一般の家庭でお風呂が持つようになったのは、最近の話であり当時ほとんどの住民は、年頃の女性以外露天風呂を利用していました。露天風呂では観光のお客さん達と住民の「のどかな交流」が当時の露天風呂では繰り広げられていました。昭和26年から、湯原ダムの本格的な建設が始まります。この頃の工事は、現在ほど重機が入りませんから建設のための労働者で町は、溢れる事になりました。地元でダム景気と言われる時代です。完成すれば当時としては、日本で有数の巨大なダムになります。そして現れる湖に観光資源として期待が掛かりました。「景気は良いし今後の期待も大きい」、湯原温泉は、当時、相当な「行け行けムード」であったと思うのです。
つづく・・
 
4.美作三湯の誕生
湯原ダムの建設は、まだ無名の地であった湯原温泉を一気に有名観光地にする大きなチャンスでした。湯原ダム建設にともなう労働者の導入で湯原温泉は、未曾有の好景気に沸いていました。建設労働者で町は、溢れ温泉街は、すごい賑わいだったそうです。私の家も当時は、一階が食堂、二階が旅館というスタイルで営業していましたが毎日毎晩がどんちゃん騒ぎで繁盛したそうです。旅館は、管理者クラスの接待やお偉いさんの宿舎として利用され、小さな居酒屋も無数に出来、どこも毎晩潤ったようです。その分、露天風呂は、その労働達によって占有され住民の方は、随分困ったと言う話も聞きましたが・・。ダム完成後の湖面利用など観光資源としての活用にも期待が高まります。小規模ながら旅館も次々と開業しました。時同じくしてやはり無名であった「奥津」「湯郷」の温泉地と連携し大阪など大都市からの誘客を図ろうという計画が出ます。それは当時三つの温泉地は、規模も小さく無名であり、各温泉地として単独で宣伝しても他の有名温泉地には太刀打ちできないという理由がありました。そこで同じ岡山の県北「美作の国」にある温泉地であり美作の国の三湯として連携し観光キャンペーンを行う事になったのです。ここに「美作三湯」の誕生です。三湯の中では湯原温泉は、当時一番の入客数があり(昭和47年まで湯原温泉が一番多かった)ダム景気に「行け行けムード」、この美作三湯キャンペーンが湯原主導で行われたのは、どうやら間違いない事のように思われるのです。掲載の写真は、岡山市から湯原温泉の路線バスが開通したお祝いの時のモノです。場所は、現在の元湯「湯本温泉館」の正面で植木バス停留所。この当時の道路事情は、ほとんど未舗装のガタガタ道、勝山など町中では、バスがすれ違うと軒先を擦るような場面が続出、岡山市内発、湯原着が特急バスで4時間以上掛かっていました。
 
5.第一次観光ブーム
湯原ダム建設の計画が発表されたとき当然の事ながら反対運動も起きています。周囲55qという今でも有数の湖の出現は、多くの家屋と農地が水没することになるのです。温泉の泉源上流100b程の位置にダムが建設されることから、泉源の枯渇も心配されました。又、高さ80bという巨大なダムとそこに蓄えられる膨大な水量は、当時としては日本一、二の先駆け的な規模の構造物だけに、その構造的な心配から下流に住む住民にとっとも不安をかき立てられました。組織的な反対運動も行われました。しかし戦後の経済復興優先の社会で揉み消されたようです。水没地域の人達は、補償金を手に新たな事業に夢を託す人も居た反面、住み慣れたふるさとから追い立てられ泣きながら新たな地に移った人達も多かったのです。その様な状況の中で湯原ダムの建設は、始まりました。
 昭和30年、湯原ダムが完成すると湯原温泉の最初の観光ブームが訪れます。キャッチフレーズは、「ダムといで湯の湯原温泉」「美作の国、湯原温泉」。ダムによって出来た湖には、遊覧船が走り手こぎのボートが浮かび、町には土産物屋が出来ました。夜の町もより賑やかになりました。当時のお客様の交通手段は、貸切の観光バスか国鉄と路線バス。自家用車でお越しになる方は、まだ少なく。勝山の駅やバス停に番頭さんが客引きに行ったいました。入客数の増加につれ旅館も増え次第に規模も大きくなってきました。設備も整え「政府登録」「国観連加盟旅館」また「日本観光旅館連盟」の格付けされた組織にも入り旅行エージェントからの送客を受けるようになったのもこの頃からです。順調な経済成長の中で全国的な観光ブームが起きる中、湯原温泉も順調に発展して行きました。その後、大阪から乗り換えなしで勝山(月田)まで国鉄の急行列車「みまさか号」が走るようになりました。昭和34年には、低価格な宿泊料金が売り物の町営の国民宿舎「桃李荘」が完成、38年には、画期的な婦人専用の県営の宿泊施設「ママの別荘」が完成します。しかしこれら2軒の施設の誕生は、規模別により宿泊料金の差で棲み分けがなされていた旅館の中で比較的小旅館の力を削ぐことになったことも否めません。しかしこの時代の急速に成長する社会に求められた観光の需要に対しそれなりの存在価値はありました。この昭和30年代から40年代の後半に掛けては、極端に言えば全国の観光地における旅館は、部屋さえ作れば全て満室になると言った状況だったのです。(参考資料:湯原町の宿泊数推移表)
 
40年 41年 42年 43年 44年 45年 46年 47年
98,692 132,126 155,941 168,342 160,225 179,758 224,091 273,905
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1.大観光ブームの到来と湯原温泉
「一坪の土地で一家四人暮らせる時代」
 
前回の号で宿泊者数のグラフを掲載しましたが、昭和44年の落ち込み以外、必要に順調に増えています。44年の落ち込みは、実は「スモン病」の影響です。当初、このスモンが発生したとき、消化器系の伝染病と思われ、恐怖心からさほど体調も悪くないのに少し胃腸がおかしいと病院にかかり医師も慎重に対応すべく入院させると言う事態が起きました。そして入院するとスモンになるのです。実は、その後、治療で使われた整腸剤の「キノホルム」に原因があったことが分かったのです。後遺症として視力の低下や、手足のしびれ麻痺など神経障害が残り社会問題としても大きく取り上げられました。現在でも多くの方がその後遺症にお困りです。さて話は、温泉街に戻します。
昭和30年から40年の間に旅館の件数は、一気に21軒に増えています。現存する統計資料には40年以前の物はないのですが先のグラフから想像するにダム建設当時は、精々年間3万人程度の年間宿泊者数であったと思いますのでこの10年間に観光客は、3倍の10万人に旅館も4倍に増え21軒になった事になります。40年代に入っても勢いは衰えません。昭和47年のオイルショックまでにさらに旅館の件数は増え、28軒になっています。増築も行われ総宿泊収容人数は、3千名までになっています。この20年あまりに渡る時代は、夢のような時代でした。狭い温泉街の中に土産物店が14軒あまり、飲食店やスナックなどが20軒程、ストリップ小屋が12軒と言った様相でした。この時期、芸者の置屋や検番も多く登録さてた芸者数は120名を越えたこともありました。夕刻ともなると旅館のお座敷に向かう芸者衆の艶姿が温泉街の風情を盛り上げた物です。「一坪の土地が温泉街に有れば一家四人が暮らしていける。」そう言われたのもこの頃です。
しかし実はこの境に美作三湯でのナンバーワンの地位を湯郷温泉に明け渡すことになりました。「ヒカリは西へ・・」、昭和50年、山陽新幹線の岡山開通が地の利の良い湯郷により大きな影響を与えました。中国自動車道の落合開通もこの年です。湯原温泉も少なからず好影響を受けましたがより以上に三湯のうちでは湯郷温泉が恩恵を得ました。また湯原温泉とは比較にならない広大な土地が湯郷温泉にはあったのです。現在でも旅館の軒数は20軒あまりと湯原温泉の宿の3分の2しかありませんが湯郷温泉は、一軒あたりの規模が大きく収容力の違いが集客人数の逆転で現れました。利用できる隣接するゴルフ場の数も圧倒的に多い上、当時観光の主体であった男性客目当てのストリップ劇場の評判が良かったのが(なさけない気も・・)理由と言われました。その差はその後しばらく開いていきます。しかしこの観光ブームの影響は、昭和51年まで続き湯原温泉の入客数も飽和状態と言えるほどで旅館のみならず観光関連の事業者は戦後からここまでは下げ知らずに来たわけです。
 
7.どこに行く湯原温泉・・その1
昭和47年をピークに入客数は次第に減少の傾向を示します。しかし当時はまだまだ行け行けムードでした。旅館のご主人も景気が(勢いが?)良く毎晩、盛り場で愚にも付かない夢を語っていた物でした。私は、昭和51年に大学を卒業し家業に入ったのですがこの50年代前半までは、誰もが湯原温泉は、「こんなモンじゃない27万人は、いや30万人ぐらいにはなる筈だ」と本気で思っていたのです。
しかし55年頃から商工会青年部を中心にした若者達に新しい動きが出始めました。大分県に発すると言われる「村おこし・町づくり」の影響です。湯原町は、湯原温泉は、これからどの様な方向性を持って行けばいいのか?湯布院の視察研修以後、若者の中で真剣に「町づくり」が語られ始めました。
若者達の観光に対する考え方も少しずつ変化を始めました。観光は総合産業だ。あらゆる物が観光に結びつく、栄えれば雇用を生み地場産品の需要を拡大し町を豊かにする。過疎が問題になる中で各地においては、あらゆる手を使って観光への活路を見いだそうとしている中で湯原は、恵まれている。他の所では「喉から手が出る」ほど欲しがっている温泉があらゆる所から湧き出している。しかし湯原温泉は、このままで良いのだろうか?今のままの「歓楽型」か?湯布院のような「保養型」か?子供達に町に残ってもらう為の「町づくり」を少しづつ、少しづつ語り始めました。この芽は、現在に引き継がれます。(この部分はまた後日ゆっくりと・・)
 
 昭和56年7月13日湯原町に突然の集中豪雨。この日、朝のうちは、晴天で商工会青年部を中心とする私たち若者の多くはかねて計画の観光宣伝キャラバンの為、大阪に出た後の夕方の出来事でした。宣伝活動を終了し市内の宿に帰った直後、「○○君の家が流された」「○○旅館が土砂崩れで埋まった」等の連絡を受け急遽宿を出て帰町したのですが真賀温泉の国道313が増水のため一部決壊、2次災害の恐れがあると言うことで道路は全面通行止めの状態でした。強引に徒歩で一部地区では腰まで泥につかりながら突破、到着したのは翌早朝でした。被害は、湯原町の全域に渡り死者2名が出る未曾有の天災でした。温泉街も大元の貯湯タンク等配湯設備の被害で約1ヶ月、ほとんど営業できないと言う状態。当時は今ほど風評被害について言われませんでしたが大きく「湯原温泉被害甚大」等と連日報道されていましたのでこれでは本当に湯原は駄目になってしまうと9月に無理矢理1ヶ月遅れの「はんざき祭り」行い湯原温泉復旧の宣言をしたのを覚えています。しかしこの昭和56年、ついに宿泊者数が20万人を割り込んでしまったのです。ピークからは7万人の減員です。雇用も減り始めました。波及する町経済にも影を落とし始めました。
48年 49年 50年 51年 52年 53年 54年 55年 56年 57年
267,977 254,356 242,811 266,109 234,027 217,287 231,515 212,908 193,292 206,246
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
8.どこに行く湯原温泉・・その2
湯原温泉の旅館の宿泊料金は、下の図のように推移しています。昭和46年当時で4600円、55年で1万円、平成元年で1万5千円、平成5年で1万7千円、11年で1万6千円。この数字は某有名旅館の料金推移です。(観光案内所資料より)一般的にはもう少し安かったと思います。近年安くなってきていますがこれは湯原温泉だけではなくて全国的な傾向で特に関東ほどこの傾向は大きくピーク時の70%程度まで安くなっている温泉地さえ有ります。結果は悲惨で各地で倒産続出です。各温泉地間での団体集客競争の結果ですが湯原温泉は、その意味に於いて集客数、宿泊料金共に非常に健闘しています。いくら集客数が増えてもこの宿泊料金が下がっているのでは経営的にアウトです。なぜ湯原温泉が他の温泉地に比べここまで頑張れているのかと言うと・・前号で書いた「町おこし」の議論や行動の中でそれぞれの宿が「湯原温泉の方向性」を見極めた結果と言えるのではないでしょうか。北陸に見られるような宴会中心の団体旅行に見切りを付け(躊躇いながらですが・・確かに団体さんは経営的には効率が良くうま味が大きい)小グループ、家族旅行に上手くシフトしてきている結果です。また米子自動車道及び岡山自動車道の開通により従来の「神庭の滝」「蒜山高原」だけでなく倉敷のチボリ公園及び美観地区そして鳥取「花回廊」等広域の観光資源が組み込まれる等、外的な要因も多いにプラスになっています。
 
話を昭和58年にさかのぼります。この年、全国を揺るがす大事件が湯原で起きました。日教組大会の開催です。56年の水害以来、未だ低迷する集客を何とかしようという意味も考えての事だったと思います。岡山県が断った日教組大会を湯原町で開催してしまったのです。岡山県も反対しました。湯原町も反対しました。そして旅館組合の総会においても反対したにも関わらず何故か湯原町で行うことになってしまいました。これは旅館にとって大きな影響力を持つ大手旅行業者JTB(交通公社)の力に一部の旅館が影響されたのです。その後の日教組大会の様子はご年輩の方は、良く覚えていらっしゃると思います。右翼の街宣車が最大時には200台以上も全国から集まり国道を行列して走り回りました。警備の警察機動隊も岡山県だけの人数では足りず近隣の県から応援が来ました。真夏の事でしたのでその隊員達が重装備に耐えかね日射病で倒れることも度々発生しました。連日、全てのテレビや新聞でその様子が全国に報道され街宣車のあまりの騒音に岡山県で「騒音防止条例」が制定されたのもその時です。テレビのワイドショーでも連日取り上げられ街宣車に脅えるご婦人や子供達が画面に大きく映し出されました。この騒ぎは、あの 大韓航空機撃墜事件(1983年9月1日に大韓航空のボーイング747が、ソ連 の戦闘機により撃墜された) まで続き何故かテレビなどの報道陣が引き上げると同時に静まります。まだ日教組大会が開催されているにも関わらず右翼の街宣車は、潮が引くようにいなくなりました。不思議でしたね。この期間、湯原町は、日教組の人達と右翼、そして大勢の警察の人々でごった返し旅館は、確かに何処も満室でした。しかし後日、聞いた話では湯原以上に近くの温泉地である三朝や関金温泉が潤ったそうです。実は、日教組の多くの人達は、騒ぎの中の湯原を避けてそれらの温泉地に宿泊していたのだそうです。
 この日教組大会の開催によって湯原町のそして湯原温泉の知名度は、連日の全国での報道でいやが上にも高まりました。しかしグラフの通り59年60年と宿泊者数は、さらに低下したのです。温泉地は、知名度だけでなくそのイメージがより大切な事をこれらの数字が教えてくれました。

58.08 日教組大会
 
60.07 温泉朝市スタート   
61.07 中国ハイウエイバス新大阪湯原間開通
62.06 第一回露天風呂の日
63.03 瀬戸大橋開通
H元昭和天皇崩御
H2.04 花の万博
 
H4.12 中国横断道米子落合間開通、冷夏長雨
 
宿泊者数の推移(昭和58年〜平成4年)
58年 59年 60年 61年 62年 63年 H1年 H2年 H3年 H4年
199,740 184,915 189,906 216,420 216,584 233,783 220,832 232,480 238,447 242,087
 
 
9.バブル期の湯原温泉と「茹で蛙」
昭和60年の7月より今も休日に行われる朝市が始まりました。温泉街の中心を休日の早朝、歩行者天国にして朝市を開いたのです。「観光と農業」今でこそ、ごく当たり前にその融合が言われますが当時としては、画期的なことでした。農家の方が丹精込めて作った野菜や加工品を持ち寄り観光のお客様と会話を楽しみながら販売する。旅館は、組合事業でこれに取り組み一人でも多くのお客様にお出かけいただこうと補助券を差し上げるのです。「何だそんなことか」とお思いの方も多いと思うのですがこの話を他の温泉地の旅館関係者などに話すと吃驚されます。「そんな事をすれば旅館の売店の売り上げが激減するじゃないか。」経営者として当たり前の反応です。しかし湯原の旅館関係者は、この朝市を歓迎したばかりでなく、朝市に送客のお手伝いまでしたのです。旅館関係者の胸の中には温泉街全体が賑やかでなければ旅館も栄えないと言う思いが生まれていました。この当時から湯原も景気が少しずつ上向きます。実はゆっくりとバブルの影響を受け始めていたのです。昭和61年から大阪直通のハイウェイバスが開通し、昭和62年には、最近では、気の利いたカレンダーには書き込まれている6月26日の「露天風呂の日」が始まります。63年には瀬戸大橋が開通しました。バブル期も中頃にさしかかります。大手企業のホテル出店の話は何回かありましたが他の温泉街に見られるような大きな設備投資は狭い谷間の温泉街という立地が幸いして行われず大きな影響はありませんでした。その当時、旅館経営者は誰しもそれなりに規模拡大の夢を持っていました。しかしかつてのような爆発的な宿泊客の増加は、お客様を有名温泉地に取られた湯原温泉には起こらず、これが幸いして今となっては無謀と思われる大きな設備投資は無く今の温泉街の中に墓標のような廃墟ビルを残さずに済んだのです。近年の宿泊客数のピークは、平成4年に訪れます。米子自動車道が落合、湯原間でつながった年です。年間宿泊客数は24万2千人。その後は、徐々に減少していきます。「本当にゆっくりと・・」実は、これが一番怖いのですが。不思議なことに心配された阪神淡路大震災の年も大幅な減員は起こりませんでした。なだらかに昨年の20万2千人まで下ってきました。本誌掲載の最初の号に書きましたが、この傾向は、確かに他の観光地に比べると善戦していると言うことになります。理由は、団体旅行から個人旅行への切り替えが比較的スムーズに行われた結果と言うことを以前書きました。しかしある意味で「茹でカエル」的状況。状況変化が緩やかなので必死的状況への移行に気づかないとも言えます。私事で恐縮ですが現在、私は宿泊業の全国組織である全旅連(全国旅館環境衛生同業組合連合会:加盟旅館3万軒)の情報部門、インターネット委員会の委員長を仰せつかっています。全国の仲間の状況が大凡つかめるポジションです。それ故に感じるのですが今年の後半あたりから今まで苦戦していた全国の有名温泉地の反撃が始まる気配です。ある意味に於いて「何もしないことが幸いであった時代」は、終わろうとしています。有名温泉地は、その経済的影響力の大きさから行政を味方につけ動き始めようとする気配です。
 
10.どこに行く「湯原温泉」
今後の湯原温泉の観光振興を考えた時、私がモデルにしたい温泉街があります。それは神戸市の有馬温泉です。「あれっ湯布院じゃないの?」と言う声が聞こえてきそうですが、今は、有馬が湯原のモデルとして一番良いと思うのです。「あんな都市型で尚かつ有名観光地を湯原が見習うなんて・・」と思われるかも知れませんね。その有馬が今、「町づくり」に懸命に取り組んでいます。今までの有馬のイメージというと関西の有名温泉であり高級な宿泊主体の温泉街というものでした。しかしあの阪神大震災以後、変わってきています。実は、あの震災で有馬温泉も大被害を受けていました。しかも多くの旅館は、設備投資直後という事もあり経営的な打撃は、想像以上に厳しかったそうです。復興時には設備を縮小する旅館もありました。「有馬の旅館は全部ダメになった。」と言う風評の中で、団体客の減少が続きます。その中で有馬温泉は、「今までの有馬は、敷居が高かった。この敷居を低くして地元関西のお客様にもっと来ていただく」と言う方向にチェンジさせているのです。具体的には入浴昼食客の積極的な受入や温泉街をブラリ散策できる町に作り替える町づくりです。それまで有馬も基本的に他の温泉地と同じように旅館主体の「まち」になっていて元々共存していた飲食店や土産物屋さんと言った本来、温泉街を形成していた形が衰退していたのです。そこで旅館や商店が共同出資で行う地域事業所主体での町並みの整備が民間主体で自主的に行われています。例えば温泉街の中心部にある後継者難などで廃業した店を旅館経営者と他の若手商店主が共同で「甘味処」や「玩具店」を営業し温泉街の復活に力を注いでいる点など。温泉街は、「まち」であり飲食店、土産物店、その他、各種見所、写し所(スナップ写真の撮影場所)等といった観光地特有の施設が必要です。ただし「センスの良い」という但し書き付きで・・。 その「センスの良い」町づくりが有馬温泉で行政も参加して行われています。主体は、あくまでも民間です。ハッキリ言ってする事なす事、一元性や計画性のない行政には、口出しさせない・・お手伝いだけお願いするというスタイル。(これは私でなく有馬の友人の言葉です・・念の為)これが実にセンスが良いのです。湯原温泉に必要なのは、今、この様な「町づくりだ」と思うのです。
 
 町を訪れるお客様の層は、明らかに変わり、若者やファミリー、カップルが増えています。お客様が以前と違うなら旧態依然のままで良い筈がありません。お客様に合わせていくのが商売の基本です。町も旅館も商店も歴史は歴史としてそれなりに変化させていく必要があります。旅館なら設備も当然ながら料理やサービスの方法が違ってくるはずです。土産物屋さんなら店頭の品揃えも客層に合わせていく必要があります。いつまでも○○製菓のお饅頭で良い筈がありません。地域の特産品も結構ですが、そのお店のご主人の趣味を生かしたお洒落な小物など逆にあまり良い意味で地域に拘らない方が良い場合だってある。高級ブランド品の安売り店が温泉街にあっても良いかも知れない。飲食店の場合もそれなりの工夫が必要です。いずれにしても問題は、土日曜はともかく平日に対応できる営業の形と町の活性化のために営むそれらの店を経営的に支えるシステムを作らなければ当面は、息が続かないと言う点です。この部分を将来を見据えて行政で補填していくという考え方が必要です。今まで農業に注いできた何分の一でも温泉街の活性化に回せば温泉街は、即時的に生き返ってきます。観光は、総合産業です。観光が活性化すれば町そのものが生き生きとしてくると信じます。このまま座して「茹で蛙」になるか、湯原を去って新天地で活路を見いだすか、はたまた「町」を信じて今こそ力を結集するか。
 
 現在の湯原町の人口は、3720人。統計予測によれば今後、10年以内に湯原町の人口は、今の67%の2500名程度まで減少するそうです。その時、皆さんは、湯原町に住んでいるでしょうか?貴方の周りの商店は、存在しているでしょうか?単に住民人口で考えるならそのほとんどは姿を消し「カタストロフィー理論」(崩壊)の実証がなされる事になります。人口がある一定の線までなら町の形態を何とか保つことが出来るがその線を下回ると一瞬にして崩壊してしまうと言う理論です。今、湯原町の各種事業所経営者は元より湯原全体の住民が岐路に立たされていると言えます。
 
 長らくご愛読下さりありがとうございました。美作三湯命名五〇周年に当たり当誌の富永氏より執筆を依頼され、身の程もわきまえず恥ずかしながら書き続けました。古い話は、父や諸先輩方のお話から書かせて頂きました。また資料につきましては湯原町商工会、(財)湯原町観光協会、湯原町旅館協同組合、そして湯原町役場の企画観光課のご協力を頂きました。関係各位には心よりお礼申し上げます。