湯原温泉【温泉と宿と露天風呂】提供:プチホテルゆばらリゾート
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湯原温泉「湯原の里」の歴史

 湯原温泉は、現在も温泉薬師周辺の河原一帯から温泉が自噴しており、古くは、その自噴する温泉をそのまま利用した露天風呂が多数ありました。またその一帯は河原の地熱そのものが高く冬季は、天然の床暖房として、たたら製鉄に従事する特に高齢者達がその河原に簡単な小屋を建て越冬地として利用していました。「たたら製鉄」は、弥生時代の後期から始まっており、湯原温泉一帯にはその時代からすでに多くの人達が分け入りたたら場と同時に温泉も利用されていたようです。この事から湯原温泉の開湯は、鉄の歴史と同じ弥生後期の約1700年前という説が有力です。奈良時代には最高権力者であった和気清麻呂の支配地となっており岡山県北の全域に当たる美作の地に政(まつりごと)を行う11の式内縣社が建てられたが湯原温泉の社地区にその内の8社が密集してあった事から時の権力者にとって重要な地域であったことが想像できる。今でもその社跡や史跡や金山(かなやま:製鉄後の屑を積んで出来た小山)社地区から7里四方に多く存在していますたたら場には多くの人手が必要とされ500名から5000名規模の集団で作業を行ってたそうです。湯原温泉周辺にはそのたたら場が多数存在していました。たたら製鉄には良質の砂鉄は勿論ながら燃料として大量の木材が必要である事から山から山への移動が必然でしたが労働は過酷であり療養としての温泉の利用や冬の越冬地として湯原温泉がその拠点になっていたようです。たたら場のイメージは、アニメ映画「もののけ姫」の中にも描かれています。

 湯原温泉が歴史的に登場するのは、豊臣秀吉の五大家臣である宇喜多秀家が母である「おふくの方」の湯治場を開設したと言う記述からです。「おふくの方」は、妖艶な美貌だったと伝えられています。生まれはこの地方で戦国の数奇な人生の中、羽柴時代に秀吉の側室となった方です。秀吉は、おふくを寵愛しその結果、秀家が秀吉の五大家臣まで上り詰めたと言われます。「おふくの方」が病になった際、秀家は、療養の地として湯原に湯屋を調えました。

宇喜多秀家とおふくの方・・詳しくはこちら
江戸時代になり安全に諸国を往来できるようになると一般的に湯治場として利用されるようになったようです。温泉の湧く川沿いには、身分により13の浴場が作られていました。浴場は、主に湯屋(旅館)が管理し湯賃を取って運営していました。また湯株という制度を設けて湯屋の経営を制限していました。湯屋には芸妓娼妓を置く事を許され料理や酒の提供も行っていました。当時すでに30軒あまりの湯屋がありました。当時の宿は、木賃宿であったと記述され米味噌醤油に値段を定め宿泊客の便宜をはかったそうですが芸妓などを置いていた事から実際には食事付きの「旅籠」であったと推察されます。

湯原に一番多く人が訪れるのは、大山での牛馬市が開かれる4月から9月までだったようです。山陰山陽を結ぶ大山道沿いにある為、この期間は、「大泊まり」と呼ばれ連日、宿泊客で溢れ繁盛を極めたそうです。この有様は、明治後半まで続きました。

明治も後半になると他のライバルとなる観光地も増えてきました。また一番には鉄道の整備が行われ人の流れが変わってきました。この頃から湯原は、湯治場としての本来の姿に戻っていきます。

上の写真は、昭和初期(s06?)の温泉街の様子です。露天風呂も現在とは様子が異なります。橋のある風景は、手前が「かじか橋」、奥に見えるのが「鼓橋」です。バックが鼓岳でこの橋の上で手を叩くと鼓の音のように「ポン、ポン」と岩肌に音が反射して聞こえてくる事から呼ばれるようになったそうです。

上は、昭和6年頃の真賀温泉の様子、真賀・足の両温泉は、温泉郷内では勝山の駅から10キロ程度と便利で賑わっていた。右の写真は、湯原の温泉館前の様子。道も随分と狭い。

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